ごあいさつ
最新情報
SDGsの5番「ジェンダー平等を実現しよう」に通じる、『女性が一生涯サッカーをできるクラブ』を実現している横須賀シーガルズ女子に、今年も協賛させていただくことになりました。
クラブのHPより
”神奈川県横須賀市を拠点に活動している女子サッカーチーム。
クラブ創設は1977年、女子は1982年に活動をスタートしました。
小学生(U-12)、中学生(U-15)、高校生(U-18)、レディース、ママさんと小学生から75歳まで幅広いカテゴリーが活動している日本最大級の女子サッカークラブです。”
OGには2011年女子W杯の優勝メンバー2名をはじめ、現役では日本女子プロサッカーリーグ(愛称”WEリーグ”)に10名ちかく輩出しています。
昨年度は中学生世代が関東大会優勝~全国ベスト8、高校生世代が全国大会ベスト4、O-30チームが関東大会優勝など、小学生から大人まで着実に力を付けています。
個人では、日本サッカー協会(JFA)が主催するキャンプにも数名が招集され、高校生世代のチームのキャプテンは、今シーズンは姉妹チーム:なでしこリーグ1部のニッパツ横浜FCシーガルズに昇格しました。
Utility SolutionsとはSDGsのターゲットは異なりますが、お互いに刺激し合いながら相乗効果を図ってゆこうと思います。
皆さま、横須賀シーガルズ女子の応援、よろしくお願いいたします。
1985年に社会人になったのですが、入社1年目の末、ちょうど36年前に今後何に取り組みたいかを発表する研修がありました。
その時の小論文と発表資料が出てきました。当時の会社に了解をもらいましたので、添付します。
まだパソコンもワープロも個人にはない時代、手書きの資料です。
1985年はまだ地球温暖化は話題にも上らず、フロン類によるオゾン層破壊が旬でした。
私は水環境を改善したくて就職したので富栄養化対策をテーマにしたようです。
偶然ですが、今でいう「再生可能エネルギー」である植物をメタン発酵してエネルギーを取り出すことなどを書いていました。
現在では水中の窒素リンの除去でなく、大気中の二酸化炭素の除去に目が向けられています。
何年たっても課題は続き、幸いなことに取り組みたいテーマがあるということで、エンジニアとして嬉しい限りです。
1986-02-28 中根 新入社員論文.pdf (0.35MB)
千曲川が決壊して新幹線基地が浸水した2019年台風19号などで、これまで何度か水害の被害にあった長野県中野市の飼料工場に当時の話を聞かせていただきました。
小学校の同級生が社長をしていて、卒業以来の再会でした。
そのあたりはやはり昔から水害には悩まされているようで、彼の会社も数年に1回、被害が出ることがあるようです。
位置関係の図をご参照ください。
通常雨水は、会社横の水路経由で篠井川~千曲川に流れるのですが、先の水害時には千曲川の水位が上ったため、篠井川の放流ゲートを閉じたことで篠井川の水が行きどころがなく、工場の壁を越えて流入したそうです。
いわゆる内水氾濫です。
その時の大雨は地元で降っていたわけではなく、はるか上流の山のほうだったそうで、被害地域の広さを目の当たりにして唖然となります。
今回、彼にお会いして現場の声や、経営者としてどう考えどう対応するのかなど、経営者目線の話も聞くことができました。
浸水が起きると建物や設備の被害はもちろん、扱うものが飼料なので価値が極端に下がってしまい、数千万円単位の損失がでるそうです。保険や補助を使っても災害に見舞われた年は赤字になってしまうとか。
お気の毒です。
でも従業員と力を合わせ復旧作業をした結果、2~3日で飼料を出荷できたそうです。信州牛に被害が出なくて良かったです。
旧友に少しでもリスク対応のお手伝いができればと思っています。
・位置関係
・通常の様子
・浸水時
・横の水路
・被害の様子
・災害廃棄物
・できる対策にも限りがあります。(擁壁の打ち増し、逆流防止板)
東日本大震災の際、石巻市全体では死者(関連死含む)・行方不明者が約4000人にせまる被害が出ました。
その中で石巻赤十字病院は、地域災害拠点病院となるべく震災の5年前に移転・新築して建てられたもので、免震構造や設備に災害対応を施していたことで、地震直後においても石巻地区で病院機能を維持することができた唯一の施設として、多くの人命を救うことができたそうです。
その有効性が評価され、その後の各地での病院建築の参考になったとのこと。
今回、外からだけですが視察してきました。
裏側のヘリポートです。
なお、震災時の備えと実状は以下の通りだったそうです。
災害時の備えとして、とても参考になる情報でした。
(出典:『石巻赤十字病院の震災時の被害状況と対応 -医療ガスを中心として-』Medical Gases, 14 (1):25-28, 2012 より)
以下抜粋 ====================================
予想された宮城県沖地震に対する備え
・建物の免震構造
地震の水平エネルギーを免震層で吸収する
・重化電源(受電)
受電本線が停電しても予備電源で受電可能
・非常用発電機(自家発電)
燃料として3 日分の重油2 万L を確保
・無停電電源装置
一時的な停電も好ましくない医療機器などは無停電装置を介したコンセントに接続
・液化酸素の備蓄
タンク内の液化酸素の残量を通常使用量の14日分以上に維持する
・衛生設備
上水と雑用水による2 系統給水による危険分散
上水備蓄:190t(半日分) 雑用水備蓄:470t(3日分)
・空調設備
非常用電流による最低限必要な空調の確保
・食糧
入院患者用3 日分
・災害対策マニュアルの整備と職員教育の徹底
・トリアージスペースの確保
正面玄関を広くし,庇を大きく張り出させてトリアージエリアとするとともに,玄関を入ってすぐのホールも広くして多数の患者を収容できるようにした。また,ホールの壁には4ヵ所,酸素配管のアウトレットを設けた。
実情
・患者・職員など:死亡,けが人なし
・建物・設備:損傷は最小限度で,使用不能になった部屋,重要機器などはなかった。
・電気:商用電源の停電と同時に自家発電に切り替えた。
震災3日目の13日朝には発電燃料の重油が底をつきかけたが,新潟からのタンクローリーが間に合い重油を確保できた。 13 日昼には商用電源も復旧した。
・給水:水道は5 日間停止した。備蓄している貯水タンクからの給水は2 日目には底をついたが,市の水道局と民間の給水車による供給がぎりぎり間に合った。
・都市ガス:供給が完全にストップし,仮復旧まで21 日,完全復旧まで1ヵ月を要した。当院のボイラーの燃料は都市ガスを使用していたため,その停止によりオートクレーブおよびEOGガス滅菌器が使えなくなり,滅菌業務に大きな支障を来した。また,ボイラーの熱源を必要とするメインの空調もストップした。さらに厨房での調理も大きな制約を受けた。
――病院新築にあたり,ボイラーの燃料として都市ガスのほか重油も使える2 重方式を検討したが,予算の関係で
見送った経緯がある。都市ガスは重油などに比べ価格が安定しており,二酸化炭素の排出も比較的少ないという利点があるが,大きな地震の度に長期間供給が止まるという大きな欠点も有している。
・通信・インターネット:電話は固定・携帯とも3 ~ 4 日間不通,インターネットは約10日間不通であった。ただし,石巻市と直通の防災無線とNTTが持ち込んでくれた衛星携帯電話は比較的早く繋がり日本赤十字本社や宮城県との連絡に使われた。
・エレベーター:3 日間使用できず入院病棟への患者の搬送も,入院患者300 人分の食事も人手に頼らざるを得なかった。時間がかかったのは,いったん止まったエレベーターは,必ず専門業者が安全点検をしなければ動かせないのだが,その業者が冠水のため来院できなかったからである。
・オーダリングシステム(一部電子カルテ):使用可能
・血液・放射線などの検査体制:緊急対応問題なし
・ヘリポート(地上):急患室入り口までの数十メートルのアプローチには何ヵ所か陥没がみられたが,ヘリポート自体には問題なかった。今回の震災では多くの患者・物資の搬送に大いに利用され,有用性を発揮した。
――当初へリポートを屋上にという案もあったが,震災時にはエレベーターの停止が予想されたため,地上の案が採用された。
・手術室:震災発生時には4 件の全身麻酔手術が行われていたが,全員無事に帰室させることができた。また,配管を含めた設備,機器等にも明らかな損傷はなかった。
無停電電源装置および自家発電が機能し,モニターや麻酔器なども全く停止しなかった。ただ,ボイラー停止により,プラズマ滅菌器と電気式の小型のオートクレーブしか使えなくなり,滅菌業務が大きく制約されたため,手術の受け入れ制限も予想された。しかし,震災後しばらくは臨時手術のみの対応としたため,実際の手術数は1ヵ月78件で通常の1/4程度と少なく,結果的に手術受け入れの対応に苦慮することはなかった。手洗い用水の使用制限もあったが,手洗せず消毒薬で手もみ後に2 重に手袋をつけることで対応した。
・医療ガス関連について(省略)
東日本大震災から3月で10年が経ちました。
かねてから10年という月日によって薄れてゆきそうな緊張感を忘れないよう、震災地域を訪問したいと思っていました。
ようやく行動規制が緩和されたので、11月28-29日に石巻市を訪問しました。
今回、生徒74人、教職員10人が犠牲になった旧・大川小学校(震災遺構)に初めて行きました。
北上川の河口から約5キロ内陸にあっても、2階をはるかに超えるあの高さまで津波が襲うとは、現場を見ても信じ難い規模でした。
訪問した日は初霜が降りたとのことで、かなり寒かったですが3月はもっと寒かったでしょう。
遺構のあちこちに、普通に学園生活をしていた痕跡が生々しくのこっていて、悲しみを新たにしました。
災害により想像を絶することが起きるのですが、それを想定しておかないといけない、という貴重なメッセージが伝わって来ました。
2階の天井まで冠水したことが見て取れます。
スロープではありません。校舎から崩れ落ちた渡り廊下です。
体育館の跡。
この高さまで津波が到達